16.7.1「みんなのねがい」の「当事者連載」に掲載

img109篠原 三恵子
全国障害者問題研究所発行「みんなのねがい」8月号の「当事者連載」というコーナーに、「絶望の闇から声をあげ始めた患者たち」と題して記事を掲載して頂きました。4回の連載の予定で、今回は1回目です。

アメリカ留学中の1990年の夏に発症しましたが、1年半後に検査を受けた病院で、EBウィルスの抗体値が桁外れに高いと言われ、やっと筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)と診断されました。1995年春に高熱と激しい下痢・嘔吐を伴う感染症にかかった後、徐々に歩けなくなり、外出に車いすが必要となり、1996年に帰国しました。2005年には座位を保てなくなり、2006年からは寝たきりに近い状態です。

私が発症した時に北米にはすでに患者会があり、ほとんどの方は病名を知っており、ドクターは親身に診て下さいました。反面、帰国後に専門外来を探して病院にかかりましたが、どこの病院でもME/CFSとは診断されず、身体表現性障害と言われたこともありました。寝たきりに近くなって受診した病院で、考え方を直せば治ると延々とお説教されたこともあります。

1990年代初めの欧米では、患者の脳の血流が落ちていると発表していました。一方、日本では、ストレスが原因の疲労の病気であるかのような発表が続き、寝たきりに近いのに、医療機関や行政から精神的な問題であるかのような差別的扱いを受けました。やがて病院には行かず、病名を隠して生きるようになりました。

2006年から寝たきりに近くなり、横になったまま乗れる車いすが必要になりましたが、行政が認めるまで2年近くかかりました。日本には重症患者の情報がなく、市議会議員や権利擁護委員の方の応援を受け、海外の情報を翻訳しては交渉を重ねたのです。もし途中であきらめていたら、私は外に出ることもできず、世間から全く忘れ去られていたでしょう。

2008年に日本で初めて同じ病気の患者数人に会い、皆が困っているのを知り、何とかしなければと思っていた時に、患者の実態を描く米国のドキュメンタリー映画に出会い、翻訳しました。2009年に初めて試写会を開きましたが、友人や知人を前に自分の病気について語ることに強い恐怖を抱いたのを、今でもはっきり覚えています。それまで人格を破壊するような言葉を、常に投げつけられていたからです。東北から駆けつけた若い患者さんは、「人前でこの病気について話すことができる日が来るとは思っていなかった」と言って涙を流しました。この涙の重さを、理解していただけるでしょうか。

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